戦後78年に思うこと
身近にあった戦争の痕跡
終戦から78年の時が流れて時代は変わりました。戦争に対する感受性やとらえ方が変わったと感じます。私の少年時代、昭和40年から50年は戦後たった20年から30年しかたっておらず、周りには戦争体験をした多くの大人たちがいました。3年前に82歳で亡くなった私の母もその一人で、小学校3年生だった時に現在の北朝鮮から日本に引き揚げてきた経験をもっていました。祖母、祖父の口からその話を聞いた記憶がありませんが、私は母から何度も戦争体験を聞いて育ち、母は亡くなる前に、孫子の世代まで伝えるようにと、引き揚げ時の手記を私に託して逝きました。そんな母に育てられ、「はだしのゲン」(中沢啓次)、「太陽の子」(灰谷健次郎)、「ガラスのうさぎ」(高木敏子)といった文芸作品に接することで戦争への恐怖と、反戦の心構えのようなものを培われた気がしています。昭和の時代に育った同年代には同じような体験をした方も多いのではないでしょうか。
原爆は特別の恐怖
戦争の悲劇のなかでも広島と長崎の原爆(水爆)の話は、子供心にも特別に恐ろしく、人が人に対してなぜこんな恐ろしいことができたのだろうかという疑問を強くもったものでした。その苦しみは経験した方にしかわかりませんが、昭和という時代に育てられた私たちは、その苦しみを、今よりも近くで想像できた者として、戦争の悲惨さと恐ろしさを次の世代に伝える役目があると思っています。
原爆症と食塩治療
私のブログは「塩と水」をテーマにしており、今回は原爆症と食塩治療についてご紹介しようと思いますが、重く痛ましい歴史に対して、軽々しい持論を展開するべきではないと考え、淡々と、このような逸話があったという事のみ、原著を引用させていただく形でご紹介させていただこうと思います。
引用書籍 「死の同心円 ―長崎被爆医師の記録―」(秋月辰一郎)
著者紹介/秋月辰一郎・・1916年長崎市生まれ。京都大学医学部卒。1940年長崎医科大学放射線科に勤務。1944年浦上第一病院の医長となる。1945年8月9日同病院勤務中に原子爆弾が投下される。浦上第一病院は大破したが倒壊を免れ、入院患者も職員も直接被爆の犠牲者はひとりもでなかった。地獄絵のような被爆地で多数の患者の治療に専念。被爆医療のかたわら「長崎の証言の会」の会長をつとめるなどして被爆体験、被災資料の収集につとめた。1972年吉川英治文化社会賞、1973年読売新聞医療厚労賞、1975年朝日賞などを受賞。著作活動にも業績を残した。2005年永眠。
~場面は終戦後から、秋月医師の苦悩が描かれます~
以下、引用(死の同心円、130pより)
放射能症に苦しむ日々がはじまる
夜、私は全身に叩かれたような疲労を感じた。一週間近く病院の庭でごろ寝し、診療に走り回ったせいばかりではない。なにかあると思ったとき、私はふと自分の症状がレントゲン・カーター(レントゲン宿酔)に酷似していることを自覚した。
長崎医大付属病院で、私は永井隆助教授の助手として1年間放射線教室に勤務したとき、何度かレントゲン・カーターに苦しめられた。これは、連続してX線の深部治療をうけた患者に見られる一種の病的症状である。医師も週のはじめから毎日X線の透視をやっていると、金曜日ごろになるときまって気分が悪くなった。X線は、多量にあれば人間の細胞を破壊する。幼弱細胞、生殖細胞、骨髄細胞など、生命現象の営みの盛んな細胞は、X線によって壊死する。
原子爆弾はいかなる放射線を生じるのだろうか。ラジウム、レントゲン、ガンマー線に似たようなものが、人間の造血組織や骨髄組織を破壊するのか。だから紫斑病のような患者があらわれたのだ。私はそこまで推理したが、その先はわからない。
終戦を転機にして、あちこちで原子爆弾という言葉が口にされ、長崎の人々をおびやかした。八月十三日ごろ、空から撒かれた米軍のビラを手に入れた長崎医大の教授の話によると、それは菊花の御紋章とともに、つぎのような文章が印刷されていたという。
「日本のみなさん。広島、長崎に投下された新型爆弾はおそろしい原子爆弾です。天皇陛下におねがいして、一日も早く降伏してください」
これを見て、教授たちは講義中に被爆した角尾学長の病状にいい知れぬ不安を抱いた。学長は頭や背中にガラス片で傷を受けたが、翌日から腸に出血に悩まされている。
「どうも赤痢のようですね。陸軍病院ならいい薬があるんだが」
角尾学長は、そう自己診断され、貴重な新薬を手に入れたが、いっこうに血便は止まらなかった。教授たちは、はじめて恐るべき放射能症に直面させられたのである。 戦争は終わったというのに、未知の放射能症が、それから40日間にわたって人々を恐怖の
どん底に突き落とした。大学教授たちも、浦上第一病院の私たちも、このとき以来、みずからがモルモットとなり、命をかけ日夜原爆症と取り組むことになる。
(中略)
爆心地から同心円状で症状がかわる
被爆以来、全身火傷やガラス創などの治療に専念してきた私は、八月十三日ごろからあたらしい疾病に直面した。
あとになって原爆症とよばれるものである。
その症状の患者は十六日をすぎると、にわかに数を増し、数日中に症状が悪化して、バタバタ死んでいく。患者の年齢や抵抗力の強弱によって、死までの時間に多少のズレがあるが、ハッキリといえることは、爆心地からの距離によって放射量に大小があり、それが激症、中等度症、弱症の区別をつけていることであった。(省略)弱症の人たちは、一週間ほどのあいだに、じょじょに症状があらわれて死んだ。
血球計算器もなく、血球を染色して顕微鏡でみる装置もない。リンゲル注射も、輸血療法もできない。
私は想像と推理によってこれを「レントゲン・カーター」に似たものと断定し、私がそれに苦しめられたとき、よく食塩を飲んだことを思い出した。レントゲン教室で働いている者の常識であった。私には原子生物学の知識はなかったが、
「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ」
と主張し、職員に命じて強引に実行させた。
ミネラル栄養論を治療に実践
それは、私が信奉しているミネラル栄養論とも一致する考えかたであった。私は石塚左玄氏の桜沢式食養学を学び、自分なりに工夫して食養医学をつくり、みずから秋月式栄養論と名付けた。
この考え方にたてば、食塩のナトリウムイオンは造血細胞に賦活力を与えるが、砂糖は造血細胞に対する毒素である。おなじ野菜でも、カボチャはいいが、ナスはよくないということになる。
浦上第一病院の患者と職員に、こうして私のミネラル栄養論を実践したが、ついでに死の灰のいっぱい付着したカボチャもずいぶん食べさせてしまった。せっせと味噌汁にいれて食べたので、二次放射能で腸をやられたかもしれない。もっとも味噌の解毒作用によって、プラスマイナス・ゼロになったと考えられる。
原野と化した病院の庭で、ナスはふしぎなほどよくとれた。むかしからナスの花にむだはないというが、それにしても被爆後のナスの実りは異常だった。八月末から十月にかけて、例年にない収穫があり、私たちはそれを味噌漬けにして毎日食べた。
虚弱体質の私が、千四百メートルの距離で被爆しながら原爆症にならず、病院の職員や患者全員がレントゲン・カーターに似た自覚症状を感じながら、なんとかそれを克服し、働きつづけることができたのは、私はやはり食塩のおかげであり、秋月式栄養論の成果であったと思う。私の周囲にいた人々は、みなそれを信じている。たとえ学会には認められない説であっても・・。
~以上、引用終わり~
二度と悲劇が起こらないことを願いつつ、
秋月医師のご冥福をお祈りいたします。
長文におつきあいいただき、ありがとうございました。
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